漣健児さんのこと~日本ポップス界の黎明~ [音楽制作]
26日と27日、CX(フジテレビ)系で放送された「ザ・ヒットパレード」は、私のような世代には実に感慨深いものがあったように思う。
ドラマの主役は渡辺プロダクションの創業社長「渡辺晋」さんだったが、ここで少し観点を変えて、「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」などで放送された洋楽ポップスが1960年代の日本の音楽シーンに与えた影響の大きさについて触れておきたい。
この頃、前記ドラマにも登場したザ・ピーナッツをはじめとして、日本のポップス系歌手の多くが洋楽ヒット曲を日本語の歌詞で歌ってヒットさせていた。今で言う「カヴァー・ヴァージョン」である。
コニー・フランシス、ポール・アンカ、ニール・セダカその他、名だたる世界のシンガーの名曲が何の抵抗もなく「日本語の歌詞」で歌われていただけでなく、それが実際に売れていたのだ。
しかも、それらの楽曲はオリジナル曲のヒットとあまりタイムラグがなく、オリジナルのレコードの売り上げと共存というか、むしろ相乗効果を生む形で発売されていたと思う。
このような音楽環境が以後の日本のポピュラー音楽シーンに与えた影響は計り知れないほど大きい。大滝詠一や山下達郎など50'sや60'sポップスの影響をモロに受けた大御所たちの例を挙げるまでもなく、 少なくともメロディラインやコード進行、それに「2ハーフ」などの楽曲構成、そして8ビートやシャッフルというベーシックなリズムの浸透は、その結果として今の日本の音楽につながっているのだ。もしこの時期に洋楽がこれほど日本人に浸透しなかったら、間違いなく現在のJ-Popはもっと毛色の違ったもの(おそらくは昭和初期の歌謡を引きずったもの)になっていただろう。
なぜこれほど洋楽ポップスが普通に受け入れられたのか?
普通、大衆音楽はその国の言葉によって歌われるものが最も人気を得るものだ。これはどこの国でも基本的に同じで、日本ももちろん例外ではない。なぜなら歌詞の意味がストレートに伝わることに絶対的な優位性があるからだ(過去記事「良い歌詞とは?」参照)。
そこで漣健児(さざなみ けんじ)さんだ。
この方は当時の洋楽ポップスの訳詞を本当に多数手がけた訳詞家であり、現在45歳くらいから70歳台の方までで、彼の訳詞による洋楽曲を聴いたことのない人は、まず、いないだろう。詳しくはホームページ中の記述を見ていただきたいが、とにかく「え、あの曲も? お、これもか?」と思うこと請け合いだ。
中尾ミエの「可愛いベイビー」、弘田三枝子の「ヴァケーション」、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」、ミーナの「砂に消えた涙」、クリスマスソングの「赤鼻のトナカイ」、、、などなど。
この「訳詞」という作業がなかったら、果たしてこれだけ洋楽曲が一般に受け入れられただろうか? おそらく相当違った結果になっていただろう。もちろん、漣健児の訳詞がそれだけ馴染みやすく、優れていたということでもある。
私は1978年頃からの15~6年間、音楽雑誌や書籍のライターの仕事を生業としていたが、当時主にお世話になったのがシンコー・ミュージック(現在はシンコーミュージック・エンタテインメントと改称)という出版社で、その頃社長をされていたのが漣健児さんこと本名・草野昌一さんだった。
草野さん(漣さん)は自らを「社長」ではなく「専務」と称し、周囲もそれで別に違和感なく過ごしていたのだが、その辺りに草野さん流の美学があったのだと思う。すでに日本でも有数の音楽系出版社であったにもかかわらず、草野専務は精力的に各フロアを動き回り、私のような駆け出しの若造にも声を掛けてくれたりする気さくな人柄だった。が、その反面、強烈な個性ゆえか、いわゆるワンマン社長的な経営手法であり、その辺りはドラマ「ザ・ヒットパレード」の渡辺晋社長にも通じる部分があったかもしれない。
アーティストの発掘やマネージメントにも熱心で、古くはチューリップや甲斐バンド、80年代にはレベッカやプリンセス・プリンセスなど、多くのアーティストを送り出している。また、本業の出版においてもミュージックライフの編集長として東郷かおる子、水上はる子、星加ルミ子などのスター編集者を育て、ヤング・ギター編集長としては山本隆士、BURRN!編集長の酒井康などの重鎮をも世に出した。変わったところで、ピーター・バラカンはかつて国際部の社員として在籍していた。
さらには、いわゆる音楽著作権ビジネスにも熱心で、かつてはビートルズ楽曲のサブパブリッシャーであり、欧州やアメリカの音楽見本市にも積極的にアプローチし、多くの外国曲を日本に紹介した功績も見逃せない。
私は、これだけの偉業を成し遂げたにしては、漣健児(草野昌一)の一般的な知名度があまりに低すぎると思う。今回例のドラマを観る前からいつかこのことを書いておこうと決めていたが、丁度よい頃合だと思ったので書かせてもらった。
漣健児(草野昌一)氏は、残念ながら昨年6月6日、すい臓ガンのため74歳で永眠された。偉大な先人のご冥福を祈るばかりである。









『漣健児は知らなくても、漣健児の歌は誰もが知っている』
確かにそうですね。
ホームページのレコードジャケットをみただけで頭の中で歌っていました。
不思議ですよね。昔の歌は頭に焼き付いているんですよね。
by 38410415 (2006-05-28 22:59)
ギリギリ、リアルタイムで体験した世代ですね。私は・・・。
漣健児さん(=シンコー・ミュージック)のお仕事は,
高校〜大学までの私の音楽体験に密接に結びついていますね。
雑誌もヤングギターやMUSIC LIFE無しに高校生活は考えられなかった。
by Ryo (2006-05-29 08:11)
日本人は外国の物を上手く取り込む術を心得ている。色んな発明も元々は
外国で発明されても、日本流にアレンジして世界を制覇してきた。そんな中で
ザ・ヒットパレードやシャボン玉ホリデーの頃、外国の歌を日本語で歌って
沸き立たせたのが発端でしたね。以後どんどん進化して演歌を抜いてしまった
感ありですね。日本人が外人に猿真似・・と言われたのもこの頃だったかな?
by 旅爺さん (2006-05-29 09:55)
「sukiyaki」がアメリカで世界で愛されたのは、海外の音楽が音楽が日本の中で消化できた表れだったのかなぁなんて思っていたりしますが、戦前から海外の曲を取り入れ・真似してきた歴史は着実に根付いて、日本の音楽の中に定着してきたと考えています。
そんな中でも漣健児さんの直接輸入するスタイルは、知らない間に定着させる功績が大きかったのでしょうね。
自分は既にビートルズ以降の世代なので、FMからは洋楽がガンガン流れていました。来日も多かったですね。そんな世代の子供たちが主力の世の中ですから、時はは流れているんだなぁと感慨深く思ったりします。
でも、RAPが好きになれない(つまらない)と思うのは年のせいだとは思いたくない年頃です。Walk This Way ( Run-DMC)ぐらいなら許せるんですけどね。 ( ̄▽ ̄;)
by moonrabbit (2006-05-29 11:58)
>38410415さん
若い頃に身体にしみ込んだ曲だから忘れにくいということもあるかと思いますが、60'sの曲は基本的にポップスの王道を行く良いメロディや歌詞を持っていたと思っています。この頃の作品はアメリカなどの職業作曲家が切磋琢磨で生み出した職人ワザの佳曲揃いで、逆にそこが気に入らない人もいるでしょう。しかし私個人は、やはりルーツをそこに置きたいと思います。
by Tad (2006-05-29 20:58)
>SWEET16さん
あらら、ヤング・ギター派でしたか(^-^;
MUSIC LIFEは当時カッコいい女性編集者が勢揃いでしたが、ヤング・◎ターにはたまにしかイケテルおねーさんが配属されませんでした。唯一イケテたYGの某女性編集者は、その後あのバラカン氏の奥様になりました(;д;)
by Tad (2006-05-29 21:13)
>旅爺さん・さん
そうですね。民族音楽を除く現在の音楽一般が西洋音楽の上に成り立っている以上、やはり最初は真似から入るしかないでしょう(^-^;
明治以来、音楽の専門家を志すような人たちはもちろんどんどん流行りの洋楽を吸収し、勉強してきました。けれども1960年代に入るまで、それは限られた愛好家に受け入れられただけで、とても大衆に受け入れられたとは言えない状況だったワケで、そこにテレビという新しい媒体を通して最新のヒット洋楽曲を親しみやすい日本語の歌詞で流したことが大きなエポックだったんですね。このときから洋楽は一気に大衆のものになったと言えます。
その意味でドラマに登場した人々は皆功績があったし、漣健児さんの力も大きかったと思うのです。
by Tad (2006-05-29 21:30)
>moonrabbitさん
中村八大さんは比較的裕福な家に育ち、早稲田大学文学部まで進む中でジャズのピアニストとして知られるようになった方です。こういう方だから当然60年代以前から洋楽(ジャズ)ドップリだったでしょうね(^-^;
今の若い世代は環境面では比較にならないほど恵まれてますが、逆にポピュラー音楽のルーツが見えにくいのではないかと思っています。その意味で少し可哀想かも、、、。
by Tad (2006-05-29 21:51)
ミュージックライフのお仕事もされていたのですかー。スゴーイ! \(゚∀゚)/
Tadさんが書かれた記事を探してみようかなー。w ∠(^ω^)
ビューティフル・サンデーとかも日本語で歌っていましたよね。w (;^ω^)b
そういえば先週、KISSの情報が欲しくて、酒井康さんのヘビーメタル・シンジケートを聴いたばかりです。w (´∀`)ノ
(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2006-05-29 23:57)
ワタシもヤングギターにはガキの頃ずいぶんお世話になりました。(^_^)
カバーバージョンの訳詩のすばらしさには実は最近になって気づき始めたのですが、こういう人の功績ってなかなか私らのレベルには聞こえてこないですよね。
それほど脚光は浴びないけどアーチストの革命的なパフォーマンスくらいインパクトのある仕事だと思います。
by サダー (2006-05-30 00:16)
録画はしてあるのですが・・(^_^;)
私はロッキン・オン派でした。
by cuvesx (2006-05-30 02:40)
>モッズパンツさん
あ、これは書き方が悪かったですね。ミュージックライフのお仕事は一度も頼まれたことありません( ̄▽ ̄;)
昔読んでた人が見ると名前バレバレなのであんまり明らかにしたくないんですが、YGとかGiGsとかはかなり書かせてもらいました。
by Tad (2006-05-30 18:19)
>サダーさん
YGの楽譜見て「あ、ここ違ってる! だから信用できねえんだよな」とか言ってませんでしたか?(^-^;
訳詞そのものが未だに日本では重要視されていないので、どちらかというと作詞もされる岩谷時子さんとかの方が有名ですよね。
by Tad (2006-05-30 18:24)
>Honuさん
ロッキン・オンは編集長のキャラが立った個性的な雑誌だったように思います。Honuさんらしいかな(^-^;
by Tad (2006-05-30 18:26)
私もミュージックライフやYGやロッキン・オン読んでました^^;
ミーハー中学生でした~(笑)ミュージックライフの企画で新人バンドの
ジャケットの塗り絵コンテストで入選してレコード貰いました!(笑)
記事とまるっきり関係なくてごめんなさい。
中村八大さんの娘さんと短大は同期でした^^
ヴァケーション♪今も好きです。ワクワクしますよね^^
by CHOCOCO (2006-05-30 20:53)
>CHOCOCOさん
CHOCOCOさんのお歳が不明なのですが(^-^;
もしかするとYG辺りで私の書いた記事を目にされているかもしれませんねf(^-^; ポリポリ
中村八大さんの曲は、確かご遺族が経営される会社が著作権の管理を行なっていて、ジャスラック経由で勝手に使うことができない仕組みだったように思います。
by Tad (2006-05-31 19:03)
過去記事にいきなりCut Inします!初めまして〜。
別の事検索していたら、ここのページが気になり来てみました!!
漣さんは亡くなる3ヶ月前にお仕事でお会いし、それが最初で最後になってしまいました。
ウチの父と同じくらいのお年でしたが、少年の様な瞳で、訳詞の事、Beatlesのこと、音楽ビジネスの事などお話しして下さいました。
で、明日は・・・MLの編集長だった星加ルミ子さんにお会いします!!
by achami (2006-06-26 21:06)
>achamiさん
コメントありがとうございます。
月末の忙しさで見逃しており、お返事が遅くなってしまいました。
お仕事で漣さんに会われたということは、もしかして現役音楽出版関連業界の方なのでしょうか(汗)
落ち着きましたらそちらにもオジャマシマス。
by Tad (2006-06-29 18:37)